塾長鍼灸師のあたまの中。

ここだけの話。

入院日記⑦ 能力を獲得する喜び

自力で何もできないというのは、不安であった。

 

起きられない。
物が取れない。
食べられない。

トイレに行けない。

 

ここまで来ると
「放っておかれると死ぬ」って思うわけで
助けを乞うしかなくなる。

 

そんな中で、やはりどうしても
トイレに行きたくなって
「最悪オムツか…?」
と覚悟を決めかけていた。

 

その時、極近いトイレにでも、
車椅子のサポートをしてくれることがわかり、
痛みを我慢しながらだけど


トイレで自分で排便することが出来た時、
どれだけ嬉しかったことか。


服にこぼしながらも、食事が出来た時、
どれだけ嬉しかったことか。

 

座って、立って、歩けた時、どれだけ安堵したことか。

 

自らの姿が、日々成長する赤ちゃんと重なったり、しんどそうにしてるじいちゃんと重なったり。

 

「自立して生きる」ということが、
どれだけ難しいことか。
当たり前のように日々は過ぎてきたけど、
それがどれだけの奇跡に支えられているのか。

 

当たり前に身体が動くことに感謝。
能力を獲得するのは嬉しい。

無題

人間が死ぬ。

 

その時に、生物的に、社会的にどう処理されていくのか。

 

現場に立ち会った訳ではないが、

現場に立ち会った経験のある人たちの話をききまくって、

実感とともにどうなっていくのかわかった。

 

生きてる実感がした。

入院日記⑥ ただ、友だちになればいい。

「地域の中で発病する」ということが自分事になって、

確信に変わった想いがある。

 

それは、「ただ、友だちになればいい。」ということ。

 

医療者同士も。住民と医療者も。

 

ただ、医療を提供する以外の場で出会いがあって、

「顔と名前はわかっている」とか

「何回か見たことある」とか。

あるいは「この人はこれからしていきたいことに共感している」とか。

 

その程度の人間関係って、多分ありふれていると思うんだけど、

その程度の「友だち」でいいんよね。

 

それだけで、今回すぐに整体師さんに診てもらえたし、

「初めてだけど、入院しよう」という決断がスムースにできたし、

もし整体師さんが病院と繋がっていたら、診断とかもう少しスムースだったかもしれないし、

関わり方の一つひとつも変わってくるやろうし、

患者からの理不尽な文句も減ることが予想されるし、

それに対して病院がビクビクして石橋を叩きまくる制度を持つ必要もなくなるやろうに…

 

その分断的なリスクヘッジにコストを割きながら「地域密着」とか言うくらいなら、

分断するのをやめて、年に何回かオープンな飲み会でも開いた方が、

安くて早くて済むと思うけどなぁ…

 

少なくとも自分は、将来の医療者としても、地域社会に生きる住民としても、

医療者に友だちを多く持とうと強く思った。