ファミリーヘルスの高め方

家族・健康・教育・生き方

最近発信していない理由について。

姫路に向かう道すがら、ここ最近の振り返りを。
 
キャパが上がってきた感覚。ただ、健康や家族が犠牲になるなら、意味はないぞ、と自分を戒める。
仕事に脂が乗り始めているのを自分でも感じる。30代とはこんなものなのかな。
後輩くんの子は女の子。「もう既にかわいい」という感情は、わかる気がする。
彼が今の収入で大丈夫なのだろうか?という不安は、僕が100%で背負うべきではないのだろう。僕自身、変化し続けてこれたし、彼も変わり続けられたはず。今の状況が嫌であれば、離れることもできた。
 
あるアドバイザーさんから、今の仕事を離れたい、との申し出。
僕の中で楔が抜けたような感覚もあり、むしろアドバイザーでなくなれば、本当の意味でのアドバイザーになってもらえるんじゃないかと感じる。
一緒にご飯を食べるような関係になれたらいいなと思う。最近の自分の悩みを相談できる数少ない人の一人。
 
相談者としての格上といえば、昨日も衝撃的なことがあった。
ほんとに昨日は、お呼び立てしてよかった。
何度も千と千尋の、カオナシを思い出す。
「この人危険やな!」と連呼するあの嗅覚。
いくつもの修羅場を乗り越えられたのだろう。
共感する一方で、客観的な事実や制度に立ち戻る。これは専門的な知識がないとできないことだった。福祉制度の知識、医療制度の知識、保険制度の知識と、分野横断的な視野。そこに、移住制度やハローワーク、市役所付き合いなど、一般知識がプラスされ、初めて整理できる状況。
混沌とコミュ力を武器にするバケモノの、唯一の対応策。
 
あのじいちゃんはなんだったんだろう。
 
姫路と言えば、ある先生を思い出す。僕の中でのひとつのモデルになっている人。
彼は食えない時代もあった、今の奥さんのヒモになっていた、と言う。
本質を突き詰め、それで食っていけるようになるには、やはり時間がかかるのだろうか。
先生にとってのヒモは、僕にとっては協力隊制度な気がする。
何かに依存しなが、支援を受けながら世の中を渡ることは、悪いことじゃない。
ただ、支援に依存することは悪い。それは、誰も幸せにすることができないから。
 
関係は変わる。それは家族も恋人も友人も職場も。
その時々で流れを捉えていくしかない。
これはかなり信頼型の人間の考え方だと思う。
安心型になり、安住の地を見つけることの方が楽で、アンテナを外に向けない方が楽に生きられるだろうなと思う。たまにその深淵を覗ける瞬間があって、そのような人の日常生活に、少しゾッとする自分がいる。やはりそのような生活が、自分の肌には合わないのだろう。
 
幸せは、盲目によってしか成立しないのか?
僕はそれを信じたくない。
臭いものの蓋を開けて開けて開け続けた先に、本当の幸せがあると信じている。
これは確からしさのある事実ではなく、単に僕の信念。
 
人はなぜ学ぶのか。
僕なりの答えは「今置かれている状況を言語化し、相対化することで、自由に行動することができるから」
常に時代は変わり続けてきた。安定し続けた社会なんてない。
ただ、変化が鈍い時代と激しい時代はあった。
変化が鈍い時代には、アンテナを閉じ、盲目になり、今の幸せに安住することの方がコスパが良くて合理的だったんだろうと想像する。
一方、変化の激しい時代には、安住の地を探すことの方が難しく、アンテナを閉じたままだと「なんとなく自分が不幸である」ということにすら気付けない人がたくさんになる。
 
僕は自己責任論が嫌いだ。
生まれた環境や時代によって人は容易く幸福にもなれば不幸のどん底にもなる。
人には誰しもなんの意図も持たない無垢な時があった。ただ必死に生きようとする生命体だった時があった。
 
僕はどういう世界観を持っているのだろうか。
人は学べば幸せになれる。
人はリソースを得れば自由になれる。
人は信頼があれば未来を信じられる。
 
リテラシーと信頼と変化と見えないものが大事。
な奴なのかもしれない。
それって結局どんなやつ?笑
 
姫路につき、久々にサンドイッチをいただく。
グルテンフリー生活をしてみているけど、元々健康だったけど、更にキャパが上がったような気がしている。
何より、これだけグルテンに溢れた世の中で、夫婦で共にこの生活に取り組めることで、なんだかゲームみたいで生活が楽しい。
代替品って、探せば結構ある。これまでに出会ったことないくらい美味しいビスキトリーも見つけることができた。
 
ただ一つ言いたいのは、グルテンは敵じゃない。単に嗜好品であり、脳が喜ぶ食事。
このホットサンドはとかく美味いな。
ただ、腸が喜ぶ食事ではない。
未来の自分に投資したいのであれば、それを理解する必要がある。
 
この世の真実らしきものに到達すればするほど、発信する気が失せていっている自分に気づく。
なぜなら、こんな話を無造作に聴きたい奴なんていないだろうと思うから。
僕は深く刺さる話をすることができると思うし、逆にライトな話をするのはむしろ苦手意識すらあるけれど、
日々ストレスを抱え、唯一の憂さ晴らしとしてSNSを覗いている同朋たちに、そんな深く本質的な話は求められていない。
 
大事なことは、大抵めんどくさい。
これは宮崎駿の言葉だが、本質を突き詰めれば突き詰めるほど、面倒で時間のかかることほど大事であることに気づくし、
でもそこに取り組む体力や余力の無い人にその必要性を訴えたって、その人をさらなる不幸に貶めるだけである。
だから僕はある時からひたすらに真実を探究しながら発信をやめ、必要になった人に対面した時に深く刺すことにしたのだろう。
そして最近になって、そもそも人生に向き合う体力余力の無い人に溢れている現状を生み出す構造の闇がどこにあるのかを探り始め、歴史を学び始めた。
 
久しぶりの背徳を食べ終えたので、また。