合掌と呼吸の透明な循環

界面を活性する文化的技術について

神社という非言語セラピーの場──ポリヴェーガル理論から見た祈りの場

私は、大学生当時、気功の場の作用について研究されていた先輩の発表に、非常に関心をもって聞き入っていました。そのとき私は、「気の共振とは何か?」という趣旨の質問をしたように記憶しています。それが思いがけず核心を突いてしまったようで、先輩が少し戸惑った様子を今でも覚えています。しかしそれがきっかけとなり、私自身も気功に興味を持ち、今でもその先輩とは親交があり、良い思い出として心に残っています。

 

それから、私は鍼灸東洋医学を学び、地域おこしを実践し、ビジネスを起こし、教育活動に携わり、やがて神道を学び始め、2025年6月1日、丹波篠山春日神社の神職としての第一歩を踏み出しました。

 

そんな今日、「ポリヴェーガル理論」に関する情報に出会いました。調べていくうちに私は、自分がこれまで人生を賭して探究してきた「人と人がつながること」、そして「それが安心や幸福を生み、明日を生きる力となること」というテーマと、この理論が見事に重なることに気づいたのです。そして、日本人にとっての神社という場の特徴も、この理論に照らせばきわめて深く説明できると直感しました。私はそれを、(あえて大きく言えば)日本に希望をもたらす「最後のピース」になり得ると感じ、ここにその考察を記しておきたいと思います。

 

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第一に、ポリヴェーガル理論とは何かについて簡単に紹介します。

この理論は、アメリカの神経科学者スティーヴン・ポージェスによって提唱されたもので、人間の自律神経のはたらきを従来の「交感神経と副交感神経」という二元論ではなく、三つに分けて説明する点に特徴があります。

 

その三つとは、背側迷走神経系(原始的な、硬直や遮断に関与する反応)、交感神経系(闘争・逃走に関与する反応)、そして腹側迷走神経系(社会的なつながり、安全、共感に関与する反応)です。

 

人は、安心できるときには腹側迷走神経系が働き、他者と共鳴し、穏やかで思いやりのある状態になります。しかし、危険を感じると交感神経系が優位になり、逃げたり戦ったりしようとします。そして、それでもだめなときには、背側迷走神経系が働き、フリーズしたり、意識を遮断するような反応が出てきます。

 

この理論の重要な点は、「安全なつながりのなかでしか、人は安心できず、癒しも回復も起きない」という理解です。そして、そうした安全なつながりを生み出す関係性を「コ・レギュレーション(共同調整)」と呼びます。まさに気功で言う「気の共振作用」と表現することができそうです。

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次に、神道における神事の特徴について述べます。

 

私が神事に携わるようになってから強く感じてきたことがあります。それは、神事の場では「静かで、緊張感があるのに、なぜか安心できる」という独特の空気がある、ということです。

 

祝詞(のりと)の声が響き、所作が静かに進められ、場が整っていくとき、参加者の身体には自然と背筋が伸び、呼吸が深くなっていく。音も少なく、空気も張り詰めていて、ある種の「緊張」があります。しかしそれは、不安ではなく、むしろ「見守られているような」安心感につながることが多いのです。

 

ポリヴェーガル理論に基づけば、このような場は、「腹側迷走神経系が活性化されているが、背側迷走神経系もやさしく支えている」ような状態だと考えることができます。つまり、過度に開放されすぎず、しかし孤立もしていない、緊張と緩和の絶妙なバランスのなかにいる――そのような神経状態が、「神事」という場の身体的本質なのではないかと思うのです。

 

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第三に、神社の「非言語的なセラピー」の場としての可能性について。

日本社会では、「カウンセリング」という言葉にまだ抵抗感があります。誰かに自分の心の内を語ること、ましてやそのために専門家を訪ねることに、ためらいを感じる人が多いのが現実です。

 

けれども、神社には「とりあえず行ってみる」という文化がある。そこで深呼吸をし、手を合わせ、祝詞を聞き、空間に身を委ねる。それだけで、言葉にならない重荷がふと軽くなる――そんな体験を、多くの人がしているはずです。

 

それは、神社という場が「非言語的なコ・レギュレーション」を提供しているからだと考えます。音、空気、所作、距離感、空間構成。そこには、身体レベルで「自分はひとりじゃない」「見守られている」という感覚が育まれる仕掛けが散りばめられているように感じるのです。

 

神社という場は、カウンセリングのように「問題を言語化し、整理する」ものではありません。むしろ、言葉にできないまま持っていたものを、身体を通じて静かに癒していく場なのではないかと思います。

 

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こうして振り返ってみると、私は自分が直感的に感じていた場の力に対して、ようやく理論的な裏付けを得たような気がしています。

お祭りや神事という営み、神社という空間は、人と人、そして人と神との「安心できるつながり」をつくる場なのだという確信が、今はあります。

 

神社における神事は、安心して心をひらき、自分自身を静かに見つめ直し、そして新しい自己を再構築する場を提供することなのではないか。私が人生をかけて探していた「人生を変えるような深い癒し」と「人とのつながり」の意味、そしてそれが日本においては神社でこそ実践できるのだということ。

長い探究の旅でしたが、ポリヴェーガル理論によって、ようやく自分の中でひとつに結ばれたような気がしています。