塾長鍼灸師のあたまの中。

ここだけの話。

引き受ける人間になる。

「集中する」にこんなに疲れていたとは。

 

金曜日の夜、頭痛がひどく、「原因は何だ?」「冷えか?あるいはカキか?」と
考えていたが、寝ても翌朝治らなかった。

 

運転をやめ、頭を使うことをやめた2日間。
ひたすらにどうぶつの森をしていた。

 

何かを考えようとしても、「もういやだ。」とすぐに諦めてしまう。

 

「集中する」「クリエイティブ」というのは、厳しいコンディションを要する。
天気、体調、気分、環境…

 

鍼灸の受診率と、学歴は比例する」とのデータがあるらしい。本で読んだ。
これは「自分のコンディションに対する投資の価値を感じるか感じざるか」
ということだろうか、と思ったりしている。

 

「集中するためのコンディションを整える鍼灸師」なぞ、ブルーオーシャンだろうなぁ。

 

僕が東洋医学を学ぶに従い、自分の身体を「脾虚」「腎虚」などとあだ名をつけていく。
そんな中で言えるのは、確実に今まで見たことない角度から身体を捉え始めているということ。
でも、逆に「まっさらな目で観察する」を失ってきたようにも感じる。

 

医学生の3年目から、患者に対する共感指数が下がるという論文を読んだが、
僕も診断する目の発展途ば、「データとして」人を診てしまいかけているのかもしれない。

 

帰ってこれるだろうか。少し不安になる。

理論を現実に押し付けるのではなく、現実から組み立てていく。
理性で学ぶ一方で、感性を極高させていく。
患者さんの前では、ただ、ただ感じる。

 

理論なぞ、感性を高めるガイドラインに過ぎない。
また、他人へ伝える言葉に過ぎない。
本質はそこにはない。
もっと深く、深く…

 

そういえばこの間、ばあちゃんから電話があった。
「手が痺れてねぇ。こんなこと初めてだから、不安でだいちゃんに電話したの…」
こんな弱々しいばあちゃんは初めてだった。
なぜ自分は頼られたのか?それは、身体について勉強していることを知っているから?
それだけじゃない。きっと、大きく、深く信頼されているからだろう。

 

焦るように答えた。
「どういう症状なの?病院には通ってるの?どんな治療受けた?」

 

具体的に、これからどう過ごしていったらいいか、少しでも役に立つアドバイスをしたかった。
でも、電話を切った時、ものすごい後悔が押し寄せてきた。

 

なぜ俺は「大丈夫!ぜったい治るから!!」って、
無責任にでも、明るく言葉を返してあげられなかったんだろう…
ばあちゃんにだって、遠く離れた俺が何もできないことくらいわかるだろ。
それなのに頼ってきたってことは、きっと少しでも勇気が欲しかっただけなんじゃないか。

 

前を向く勇気が。
それだけだったのに。

 

まだまだまだまだ甘い。甘え切っている。
覚悟を決めよ。腹を据えよ。どんと構えよ。フラつくな。

 

プロフェッショナルになるんだろう。人を癒すプロに。

 

責任を引き受ける覚悟。
どんな結果でも受け止める覚悟。
ぶつかってもやり通す覚悟。

 

鍼灸はサービス業じゃない。」と、ある鍼灸師さん。
「患者さんの求める治療方法を提供するんじゃない。
 患者さんの求める状態を実現することに対しては、手段を選んではいけないんだ。」

 

鍼灸師になる前に。
絶対に腹を決めなければならない。
「あいまいなことは言うな」と。

 

どうにもならないとわかった場合、どうしたらいいんだろう…?
もしうちのばあちゃんのようだったら?
あるいは、もうすぐ死ぬとわかったら…?

 

その現実を受け止め切れるのだろうか。

 

拠り所となる哲学が、まだ自分にはない。
まだそこまでの器じゃないのか。
人の生死を扱うような。人生を扱うような。

 

「自分の権利を守りたい」そんなことじゃない。
患者さんの死をもってしても、残された家族が幸せになれる。
そんな風に、全てをまあるく納める度量。

 

それを渇望しているんだ。

高校生課題研究コーディネーターが終了しました。

思えば、三年前に始まったことだった。

 

高校生マイクロ水力発電アイディアコンテスト。
これは本当に苦労したなぁ。勉強しながら、専門家に会い意見を聞きながら、企画を立てては会議を調整し、高校のアポを取り、行政からお金を引っ張り、地域を調整し…ゼロからイチをつくる、初めての経験をさせていただいた。

 

そして、その後2年間の、高校生課題研究コーディネーター。
所属を超えて、連携すること、人を繋げることの楽しさ、大変さを学んだ。
お互いの意図を汲み、一つのプロジェクトに仕上げていくことに、自分の適性があることに気づけた。

 

そして、2018年度。
遂に僕の手から離れることになった。
しかも、プロジェクトが継続する形で。
まだ未確定のことなので、詳しくは言えないが、きっと大きな、
そして何より、高校生学びになるプロジェクトになりそうで、すごくワクワクしている。

 

子離れの瞬間を味わったような気持ちだった。
やり通すことができて、本当に良かったと感じている。

ここまで来るのに、3年かかるんだなぁと。
感慨深かった。

 

ここから。

 

人間としてまた新しい段階に入れるような気がして、
とてもワクワクしている。


次は、どんなプロジェクトが始まるんだろうな。

受験が終了した。

タフな4か月だった。
僕でさえそうだったんだから、本人や親御さんたちは、もっとしんどかったろうな。

 

2017年12月~2018年3月は、僕にとってかなり記憶に残る期間だった。

 

それぞれに結果が出て、うまくいった子も、行かなかった子もいる。

 

結果として、高校受験生たちは、5人全員が、自身で納得して選んだ第一志望に合格することができた。


大学受験生たちは、1人が第一志望、1人は紆余曲折あり、滑り止めとして受けた大学に合格した。

 

塾として見た時、どう評価されるのだろう?
数学として、何か評価が下されるのだろうか。
それぞれの受験生が、n=1のデータとして?

 

それぞれにストーリーがある。これからも彼らの人生は続いていくんだ。


元々受かる実力を持って、受かった子もいる。実力をつけ、合格を自ら勝ち取った子もいる。
不合格の結果にもなお、前を向く子もいる。
それらのストーリーを、どうやって同じく評価することができよう?

 

それぞれの人生には、計り知れない価値があるように、その1ピースである「受験」そして受験勉強、真剣に進路に悩んだ時間、自分の弱さと向き合ったこと、親とぶつかったこと、上手くいってそうな友だちを羨んだこと、友だちの前では見栄を張ってしまったこと、悩みが深まって寺子屋で溢れ出た想い。
そのすべてに計り知れない価値がある。

 

ただし、それは受験に関係することだけに言えることじゃない。


何気ない1日と、受験当日の価値は、全く等しい。
毎日を「自分の人生がかかっている受験のように真剣に」生きることが出来たら、どれだけ充実した人生になるだろう?

 

僕は、子どもと向き合う時、常に考えてしまうことがある。「もしこの子が自分と同い年になった時、豊かな人生を送れているだろうか?」と。あるいは、「その為には、今どんな関わり方をするのがベストなんだろう?」ということだ。


そんな長期的な目線で受験を見た時には、受験を通して自分がどんな成長をしたかの方が大事だし、
もっと言えば、その先の進路で毎日をどう過ごすか、の方が圧倒的に大事だ。

 

僕の蒔いた種は、いつ芽吹くだろう?
どんな花になり、どんな実をつけるだろう?

 

受験に勝るくらい全力で人生を送り、合格通知を開けた時くらいの深い喜びを日々感じて生きてほしい。

 

その為に僕は、時に彼らの人生におせっかいに向き合い、
時に25才、一歩先行く先輩として、日々真剣勝負で生きる背中を見せ続けるしかないんじゃないかと思っている。

 

また今年も、寺子屋には受験生がいる。
塾にとって毎年のことでも、彼らにとっては常に初めてのことばかりだ。


生き様を見せながら、人生まるごと向き合うのは、並大抵の覚悟じゃ出来ない。

 

でも、やってしまうんだろうな。
そっちの方が、面白いからな。