塾長鍼灸師のあたまの中。

ここだけの話。

新月と、サードアイ。

いや、ほんとに伝わらないことを言います。

 

鍼灸学校に通うようになり、運良くホンモノの技術を持った先生に出逢うことができました。

その中で、感じることの大切さを、ひしひしと感じておりまして。

特に僕の中で目覚めつつあるのは、「気の感覚」です。

 

詰まり。くぼみ。冷え。

これが所謂ツボの感覚です。

 

そこをうまく刺激できると、

通る感じ。流れる感じ。

それを受けた本人はもちろん、僕も感じることができるようになってきたのです。

 

で、もっと言うと、うまく刺激できた時にしか感じられない、

脈打つ感じ。熱い感じ。しっくりくる感じ。

まだまだ練習は必要ですが、これを結構明確に感じ分けられるようになってきたのです。

 

はてさて。そんな練習を学校でして、学校の外でして…を繰り返してる内に、なんだか「直観らしきもの」がかなり鋭くなってきたような気がしていて。

というよりも、「自分の直観に自信を持てる」というような、「どうせ降りてくるからな」とどっしり構えられるようになってきたのです。

 

僕の今年一年の抱負は、

「導く。導かれる。」です。

 

何か、掴み取るのではなく、

導かれる未来がある。

そして、導く相手がいる。

 

そんな気がしている今日この頃です。

 

伝わらないことは本当に自覚してますし、半年前の自分が見てもちょっと引くような文章書いてます。笑

 

「じゃあなんでブログなんかに書くんだ。」

 

このブログのモノローグぶりがバレてしまいそうですね。

 

さてさて、今後僕はどうなっていくのでしょうか。自分の未来が楽しみです。

鍼灸って、すごない?

「僕がどうだ」とか、言うつもりは、少ししかないんです。笑

 

いや、ほんとに、鍼灸って、すごい。

知りませんか??

 

それに気付いていない人が世の中多すぎて、
もったいなすぎて、
気付いてなさすぎて、
笑えてくる。

 

首肩こり、腰痛、頭痛、眼精疲労、寝つき悪さ、耳のくもり、やる気の無さ、二日酔い、お腹の不調、お腹の痛み、鼻づまり、喉の疲れ…
全部軽いのだと思うけど、実際ケアしたことあるやつ。どこまで治ったかは、わからない。でも少なくともその場で驚きと共に、笑顔になってくれた。

鍼灸学生一年生の僕でもこんなことができる…

 

鍼灸って、すごない?

 

鍼灸って、何が得意か知ってますか?

あなたを「スーパーサイヤ人」にすることが得意なんです。笑

 

「何か病気ある?」と言われても無いと答える人が、上のような症状を例示されたら、いくつも当てはまることが少なくない。

 

それを抱えて生きる人生、ほんとにもったいない。

人生って、実はもっと楽しいんじゃないか。

 

この年末年始にたくさんの人に出会い、そしてその度に練習させてもらってました。

治らないと諦めかけてるんだろうなぁ。

 

でも今僕は、「見えてる症状を緩和する」ことしかできない。

残りの学生生活では、その上で「悩んでいた症状が出にくい身体づくり」を学ぶ予定です。

そのために、「身体の状態を診る技術」を高めまくります。

 

鍼灸を受けたことある人は、日本の人口の6%」

僕には「ブルーオーシャンが広がっている」としか聞こえなかった。

待ってろよ、94%。

 

なんだか、鍼灸を使ってバシバシに人の心を掴んでしまう日が続いてて、調子に乗っている夜中の湯槽より。

こみ上げる、この気持ちはなんだろう。

今日は元旦だ。
 
だからなのか、なんなのか。
今まで自分が何を糧に、何を軸に、何に価値を置いて生きてきたのか。
それにスポットライトがあたる日だった。
 
まさに「こみ上げる、この気持ちはなんだろう。」という状態だった。
 
僕は、いたって豊かな国に生まれ、その中でもいたって幸せな家庭に生まれ育った。
特にトラブルというトラブルもなかった気がする。
あったとすれば、小学校1年生の時にちょっとだけいじめられていたような気もするが、そんなのはトラブルのうちに入らない気がする。
 
幸せ。順風満帆。生きる環境に何の文句もない。軽やか。
何の荷物も背負っていない。そんな感じだ。
 
それは両親の性格のせいなのか、はたまたそれを生み出した、
僕の大好きなばあちゃんのせいなのか。
 
なぜか、他人の荷物まで背負いたがる性格に育ってしまった。
 
まったくおめでたい奴だと思いませんか?
そんなことをする余裕もない過酷な環境に生まれて生きている人もいるのに。
おめでたい、ほんとに。自分でも辟易する。
 
昔からそうだ。
 
自分の荷物は問題にならないほど軽く感じていたのか、ほとんど無意識だった。
他の荷物の重そうな奴を見つけては 「俺が持ってあげようか?」って声をかけて。
 
そういう時、言われた側は、始め「そんなこと言われたことない」と喜んでくれることがあった。
はなから拒否反応を示す人もいるだろうが、特に幼いうちは、拒否されることは少なかったような気がする。
 
それが第一段階。それが女の子なら、ここで付き合うことも少なくなかったような。
 
でも、第二段階。その人が抱える問題の核心に、僕が迫れば迫るほど、当事者は「自分事」として現状を直視しなければならなくなるし、アクションを求められるようになる。
かつ、今のような大人になるまでは、僕やその人自身にはどうにもできないことが多かった。
 
そうなると、第一段階では喜んでくれていた人も、徐々に僕に対して拒否反応を示してくる。
でも、僕は純白な「助けたい気持ち」と少しの興味から、状況を明らかにしようと迫る。
 
その先に、絶望しかなかったとしても。
 
大人になってから、やっと第三段階が見えてきた。
本当にその問題を解決する手段が思いつき、そしてそれが実行できることが増えてきたからだろうか。
僕は幼いころからずっとこの「問題の核心を解決する」第三段階を純粋な目で目指していたんだと思う。
 
話が逸れた。
 
なんで僕は、そんなに他人のことを助けたいと思ってきたんだろう?
 
だって、第二段階に差し掛かって、助けたいと思ってあれこれと相談に乗り、何かできないかと真剣に考え、問題の核心を突こうとする度に相手を傷つけた。
 
そんな自分が矛盾しているように感じて何度傷ついたことか。
何度打ちのめされたことか。
何故俺は誰のことも助けられないんだ。
なぜ俺は何もできないんだ。
なぜ助けようとして傷つけてしまうんだ。
 
でも、それでも、めげずにその「純粋な目」を持ち続けてここまで来た。
 
人を助けるとはどういうことなのか。
何の荷物も背負って来なかった自分でも、そのことを誰よりも真剣に考えてきたつもりだ。
 
だから、今の自分がある。
何か新しい考え、技術を身につける度に、
「あぁ、あの時の俺がこれを知っていたらあいつを助けられたかもしれない。」と思う。
 
後悔だらけの人生だなぁ。本当に後悔だらけ。
だけど、その後悔があるから、今の自分があるんだ。
より多くの人を助けることができるであろう、今の自分が。
 
なぜ人の荷物を背負いたがっていたのか。いるのか。
 
それは、幸せだからだったんだ、と今日気付いた。
 
成功とは、思い描いたものを手に入れることだが、
幸せとは、手に入れたものを分かち合うことだから。
 
分けてもらう幸せ。それが例え重すぎる荷物でも。
分けてあげる幸せ。それが例え何年もかけて考えた自分にしか思いついてないような考えでも。それが例えお金と時間を費やして苦労して身につけた技術でも。
 
それをひたすら求めてきた人生だったような気がしている。
 
苦しみも、悲しみも、喜びも、分かち合うことに価値を置いてきたんだなぁ、きっと。
やっぱり菩薩界を目指してるし、それが究極の幸せだと感じているんだ。