「満足」はつくれる。
情報過多の時代だ、と言われているのを聞いたことがある。
確かに、若者にとって、メディアは多様化している。
ネットニュース。Youtubeなどの動画サイト。新聞、雑誌、ラジオなど。
すべてをチェックしようと思っても、まぁキリがない。
情報が流れ込んでくる。気になったことはすぐに検索できる。
みんなの”反応”を見ることもできる。
こんな時代に「満足する」というのは、とても意識的にしないと、
実感することが難しい行為になってきているのではないかなぁ、と思う。
その理由は2つある。
一つ目は、常に「自分が選ばなかった選択」が見えてしまうことである。
例えば、休日の過ごし方。自分が「これをしたい気分だなぁ。」と思って何か始めたとしても、
SNSを見ていれば、自分とは違うことをして、楽しそうに過ごしている人なんて数えきれない。
「あー、これをすればよかった。」と思ったことは少なくない。
経済学の用語では、この現象を「機会費用」と呼ぶ。
つまり、自分が選んだ行動にかかった時間に得た利益と、
自分が選ばなかった行動で得たであろう利益との差のことである。
選択肢が膨大に見えてしまう環境で、自分なりのベストを選び続けることは難しい。
もし仮に選び続けていたとしても「これがベストかどうか」自信を持ち続けるのは難しい。
だから、「満足する」ことは難しい。
二つ目は、一つ目の理由とも関連するが、
人参をぶら下げられた馬のような状態だからだ。
例えば、Youtubeで最近気になっていたアーティストの曲を聴いていたとしよう。
その曲を聞いて、「やっぱりいいなぁ。」と思っていると、
曲が終わる前に、否、その曲が再生された時点から
「そのアーティストの他の曲」だったり「同ジャンルの人気曲」だったり、
最終的には「あなたへのおすすめ」が提示されている。
すなわち、情報過多の時代、何かコンテンツを楽しんでいる最中にも
次に見るべき情報が用意されていて、
今楽しんでいるコンテンツを見終わった途端(あるいは見終える前に)
次の情報に手が伸びてしまう仕組みになっている。
いつまでたってもゴールはない。
鼻息を荒らして走り続けるか、あるいは人参をあきらめるしかないのだ。
そんな時代に生きる若者だが、溢れ返る情報に振り回されず、
幸せに生きるためにどうしたらいいかと考えていて、
ある”コツ”に最近気付いた。
誰にでもできる簡単なことだ。
「意識的に余韻を楽しむこと」である。
何かのコンテンツが終了した、一区切りした時点で目を瞑り
「はぁ~、最高やったな!」「もう満足した!」「わろたなぁ!」
と声に出す。
それだけ。
間違いない自分の実感を、目を瞑って口に出すだけ。
それだけなのだ。
それだけなのに、心は幸せで満ち足りてしまった。
文字通り、満足することができてしまったのだ。
情報過多の時代の幸せは、
一時的に情報を遮断し、自分の心や体に目を向けることにあるのかもしれない。