”要するに僕は、「答えへの着きかたを教える先生」ではなくて
「ファシリテーター」なんだ。それを目指していたんだ。”
と言ったけど、僕は先生になるのも嫌いじゃないことに気付く。
というか、むしろ好きだ。
でも、「好きだなぁ」と感じるときの条件は、厳しい。
僕は学校のベテラン先生みたいに、「完成した人間」じゃない。
だから、論理立てて説明しながら、あるべき人間へ導くことなんざ、
僕にはあと数十年できないことだと思う。
代わりに、「僕が今ある能力を限界まで使ってわかったこと」をしゃべることはできる。
それは、生ものだから、賞味期限は短いかもしれない。
だけど、子どもにとって「10年くらい先輩の生の声」を聴くのは、なかなかできないことなのではないか、と考えている。
それは、数学や国語の解き方・勉強法にしてもそうだし、キャリアに対する考え方にしてもそう。
今僕が最もイケてると思う説を、ガンガン生徒にぶつける。
生徒は、未整理な話を聞くことになるから、かなり主体的じゃないとつまらないと思う。し、意味がわからないと思う。
だけどそこで、「おもしれぇ!」「これは聞いたことない話だ。ワクワクする…‼」ってゆー目で聞いてくれる子に対して、僕の今ある全てを教えるのは好き。
これこそ、僕の言うところの「坊さん」のあるべき姿。
もちろん、興味を持ってもらえるように、語りかけ方に注意したり、その手前で僕自身という人間に魅力を感じてもらう努力は必要だと思うけどね。
結論、僕は「みんなの意見を優しく拾い続けるファシリテーター」
あるいは「自分の言いたいことを言うワガママな先生」が好き。
「生徒のレベルに合わせて優しく教える先生」は、誰かできる人にやってもらおう。