ファミリーヘルスの高め方

家族・健康・教育・生き方

脳の省エネ志向と、家族内のコミュニケーションの難しさについて。

誰もが、幸せな人生を生きたい、と思う。

幸せな人生をイメージした時に、「家族」が絡む内容をよく耳にする。

家族関係が良好=幸せ と捉えている人も少なくないだろう。

しかし、それがよく意識されている、ということが事実だとすると、

裏を返せば、家族関係に悩みを抱えている人も多い、ということではないだろうか。

今回は、一番身近であり、幸せな人生において重要で、かつ最も難しい家族内のコミュニケーションについて、脳の構造から捉えてみたいと思う。

 

1.脳の省エネ志向

僕たちは日々、とてつもない量の情報に曝されながら生きている。

それらをすべて処理しようとすれば、とても脳のメモリは足りない。

それは、人間が狩猟をしていた時代から、インターネットに常時接続している現代まで、変わらない事実だ。

人によって、同じことを経験しても、見ているもの・聞いていること・感じているもの・覚えていることは違ったりする。それは、人間が同時にその場のすべての情報を処理することができず、関心があったり都合のいいところだけを情報処理している証拠である。

そんな環境にある人間の脳は、常に「どこで省エネができるか」を探っている。

脳の省エネの代表的な例として「習慣化」がある。

日々、繰り返し反復した動作や言動は、何も考えなくても(というより条件がそろえば無意識に)発動する。思考や感情、内臓運動でも同じことが起きる。

これを利用できるようになれば、良い習慣をつくり、極論、よい人生を送ることができるだろう。逆に、これを利用されて操られることも多い。消費心理学などは、この辺りを学ぶのではないだろうか。

 

繰り返し反復されたものが習慣化するというのは、言い換えれば脳内シナプスでショートカットルートができ、意識を司り多大なエネルギーを消費する前頭葉が働かなくていい体制ができる、ということ。自動化・無意識化、と言い換えることもできるだろう。

 

2.家族のコミュニケーションを変えることの難しさ

家族は、人生の中で最も多くの時間を共に過ごすこと、あるいはそうして過ごした時期があることが多い。

生活を一つにする、ということは、つまり繰り返し反復され、習慣化されることも必然的に多くなる。全ての行動・言動をいちいち意識化していたら、とても仕事なんてできる暇はないだろう。へとへとになる。

家族間のコミュニケーションにもそれは当てはまる。

よくよく思い返してみてほしい。同じような状況であること(椅子の座り位置や時間帯など)も相まって、同じような会話、同じような構図になりがちである。それ自体は悪いことではない。脳の省エネは積極的にしていこう。

しかし、家族関係に困難が訪れた場合、変化が求められた場合に、壁は立ちはだかる。

普段無意識に省エネモードで行われている会話を、相手をしっかり捉え、一つずつ丁寧に振り返っていく「対話」に切り替えなければならない。

言葉にすると簡単そうだが、習慣は強力だ。列車は急には止まれない。

そこには必ず、苛立ちや葛藤、悲しみなどストレスがかかる。

その目先のストレスを回避することもできる。しかし、より人生において重要で本質的な悩み(洗濯の流儀のすり合わせから、子どもの進路選択、借金を抱えたことの合意形成など多種多様である)の解決は先延ばしにされてしまうことになる。

しかし、様々な外圧によって、いずれか勇気をもって打ち明けるか、結果だけを伝えるか、黙って押し通すか、(時間に猶予があれば)悩み続けて体調を崩すか…という次のアクションが取られたときに、家族としてどう対応するべきか、が問われることになる。

家族を構成するそれぞれのメンバーにライフステージがあり、様々な都合がある。家族関係が変わること自体は、適度であればむしろオススメしたいことではあるが、その「変わり方」については、テクノロジーがある。

つまり学ばなければ家族の変化はストレスフルなイベントになるし、学べば誰でもそのストレスを減らして良好な関係を維持していくことができるようになる、と僕は考えている。

しかしそれにしても、家族内だけで適切な対話の場を生むことはやはり難しい。だからこそ誰しも多かれ少なかれ家族の悩みは持っているし、その悩みは絶えないのだろう。

そこで、家族に介入できるカウンセラーなど専門家か、そうでなくても誰か中立な仲裁者を立てることもあるだろう。

まさに僕はそんな「家族会議のファシリテーター」をやりたい、と「ファミリーヘルストレーナー」を名乗っている訳だが、一つ悩んでいることがある。

 

3.他人が家族関係に介入することのリスクについて

家族のことを世間にあまり知らさない方がよい、という「恥」文化が根強く日本にはあるように思う。

「うちはうち、よそはよそ。」と割り切った考えをすることも多い。

だからこそ、表面的にはうまくいっていそうな家族にも、とてつもない深さの闇が潜んでいることもある。

例えば僕のような他者が家族関係に介入し、つまり自動化されていたプロセスを意識化してその家族を一時的なストレス状態に曝した時に、変化の結果が、最悪その家族の生死に関わることもあるのではないか、というリスクを感じている。誰かの立つ瀬を奪い、相当追い込んでしまうかもしれない。社会生活を送らざるを得ないホモサピエンスにとって、時として立場は命よりも重い。

また、相当な前情報を持っていなければ、変化の結果を完全に予想することは難しい。

夫婦関係だけを捉えようとしても、それぞれの実家での過ごした歴史が関係するし、実家や親せきが外圧となって関係が歪んでいる場合もあり、たいていの場合複数の要素が絡み合って現状があり、他者が一つひとつを抜け漏れなく把握するにはかなり綿密な事情聴取が必要になる。

僕は身近なところから何度か介入にトライしてきたが、完全に家族関係を変化させ、かつ安定するまで付き合っていこうとすると、相当な労力を割くことになる。

その達成感は人生においてもとても重要なものであるし、かけがえのない経験を積ませてもらったとは感じているが、到底ビジネスにすることはできないだろうな、と思っている。その分の対価を適正に貰おうとすれば、逆にとんでもない高額商品になってしまう(そういうビジネス展開もありなのだが)。

しかし、ビジネスにできないのであれば、持続的に行っていくためには、別に生計を立てるか何かしなければいけない。

 

①「身内の恥」文化により相当信頼関係を深めないと家族関係についての本音は聞けない

②介入した結果起きる変化について、それを完全に予想・コントロールすることは難しく、また家族関係の変化に伴うリスクは膨大である

受益者負担モデルのビジネスは成立させるのが難しい

 

このあたりのことを理由に、日本では家族関係に直接的に介入するようなサービスが少ない、あるいは殆ど皆無なのではないかな、と考えている。

もちろん、学校の先生、ファイナンシャルプランナー、結婚相談所、ハウスメーカー保健師、ケアマネージャー、カウンセラー、児童養護施設、宗教家、占い師など、様々な専門家が、日々家族関係に向き合っていると思う。

しかし、家族関係や、そのコミュニケーションの在り方に直接介入する意図を持った専門家は、ごく一部に限られている現状があるのではないだろうか。

僕はそこを問題視している。

 

4.だからこそ、僕は挑戦したい。

「幸せな人生とは何か?」

このことについて、個人的に研究・実践をそれなりに積み重ねてきたつもりでいるが、

幸せに関連する要素である、健康、人間関係、金銭的な豊かさ、情報リテラシー、キャリア形成、教育など、それらすべてにおいて「家族」がボトルネックになることが少なくない。

逆に言うと、家族にさえ介入できれば、あらゆることがうまく回り出すという「幸せのレバレッジポイント」はここにある、と僕は確信している。

 

日本は、世界は、我々は今、確実に、変化の激しい時代を生きている。

未来を予想することはとても難しい。そんな中でこそ。

 

僕は、日本中に、しなやかな強さを持った家族を増やしたい。それが僕の夢だ。

それはつまり、互いを尊重し、対話を厭わない家族。

NOと言える家族。NOを受け入れる家族。

互いの状況や気持ち、置かれている環境や時代の変化にうまく対応できる家族。

喧嘩や言い合いはしても、また食卓を一緒に囲める家族。

困難が訪れた時、共に戦う戦友になれる家族。

 

どのようにしたらいいのか、具体的にはまだ見えていない。

しかし、だからこそ、誰にも見えていないからこそ、僕は挑戦したいと思う。

 

「やっぱ家族関係に介入するの、ムリゲーじゃね?」と心が折れかけていた自分に対して「いやいや、だからこそ挑戦する価値があるんじゃん」という叱咤激励として、ここに記しておきます。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。