塾長鍼灸師のあたまの中。

ここだけの話。

無題。今の気持ち。

僕は今から散文を書く。

どうしても今の頭の中にある言葉を今、残したくて。

最近感動することが多かったからだろうか、この感覚。

最近は日記を書く事すらできていない。

しかし今日、学校の試験がひと段落した。

今は、寺子屋カフェという、子どもたちが勉強する空間の中にいるが、

その合間を縫って、文章を書きたくなった。

 

今日はテストがあった。先週金曜日は、実技テストがあった。

初っ端にミスをしたのが、心にひっかかっている。

まぁいいか。なるようになる。

 

忘年会。昨日、自宅で開催した。ただただ、僕が好きな人たちを集めて、僕の好きなことをし、好きな料理を食べるという会。最高だった。

その中で「最近の趣味は?」という話題になったが、僕は「人を集めること」「深い話をすること」かもしれない。

お酒も出ないのに、ひたすらひと月の振り返りをして、友人が何に心動くのか、ワクワクするのか、どう生きるのかを聞き、そんな熱に触発されて、僕の心も動き。

気付けば8時間も経っていた。何の矛盾も感じない、心地よい、限りなく幸せな時間だった。

 

この宝塚の家を。カウンターキッチンのある、リビングの広い家を、選んで良かったと思う。

家は日常を一番長く過ごす環境である。

環境は、無意識に働きかけてくる。

しかも圧倒的な時間という積み重ねを武器に、強烈に働きかけてくる。

そこにこだわっていくことが、どれだけ大切か。今改めて気付いている。

 

建築士の友だちも家に来てくれて、入った瞬間「あ、ただいま。帰ってきた感じがする。」と言ってくれて、プロも認めてくれたってのが、単純に嬉しい。

 

梅干しが、食べられたことは、僕にとってとても感動的な瞬間だった。

物心つく前から、僕は梅干しが嫌いだった。

多分幼い舌には、あの酸味は強烈すぎたのだろう。

ほぼ生理的に受け付けない感覚が強かった。

 

しかし僕の中で、その状況を覆す可能性がある、一つの成功体験があった。

それは「うに」だ。

それもまた幼い頃だった。瓶に入った塩うにを食べ、僕は吐き気をもよおした。

強烈な酒の香りと塩味。僕は一気に「うに」という食べ物が嫌いになった。

しかし数年後、僕が食べた「うに」は、ある一つの、しかも特殊な形態に過ぎないことを知る。

僕がうまいと思ったのはいつ、どこでだったんだろう。「生うに」なるものを、ワサビを溶いた刺身醤油に少しつけて、白い炊きたてのご飯に乗せて食べた感動は、今でも脳裏に過る。

 

それから大人になった僕は、田舎に関わるようになってそれなりに「本物の食材の味」を覚え、茶香服というお茶の飲み分け大会に出場し、コーヒーのカッピング講座を受け、それなりに味覚を研ぎ澄ましてきたつもりだ。

そして、東洋医学を学ぶ中で幾度となく「梅干しは身体に良い」という文面に対峙してきた。

 

「時は満ちたのかもしれない。」

僕はなぜかそんな気分で、ツイートした。

「大人になり、味覚を鍛えてきた今、添加物とかの入っていない、本物を食べたら、僕も梅干しを克服できるのかもしれない」と。

するとすぐに反応が。「おいしい梅干し知ってるよ。忘年会で持っていくね。」

 

大好きな土鍋ご飯の上にひとかけ。あの赤い悪魔にも見えた梅干しの欠片を、自らの箸で、自らの意志で、つまみ、乗せる。

唾が溢れてきた。ゴクリ。

半ば喉の奥に押し込むように、口に箸を差し込んだ。

 

……

独特の、僕が苦手だった酸味が、まずは鼻をつく。

……

しかし、その後を追いかけるように、旨味と甘味がごはんと一緒に口の中に広がった。

……

「うん、いけそう。(なんだ、こんなもんか)」あっけない感想を言ってしまって、少し場の盛り上がりを気にした。

 

もうひとかけ、口に入れてみる。

「うん、やっぱりいけるわ。これは。」

 

正直「最高にうまい!」とは思わなかった。

しかし、明日から食卓に出てきても、嫌じゃないってくらいまでは、好きになれた。

20数年に渡って嫌いだった食材の克服だ。

 

中学生時代の話になった。僕は公立中学校だったから、今思えば、色んな背景を持った人が一緒にいたんだな、と感じる。

その中で僕は生き延びるために、「人に合わせるスキル」を得ることもできたのだが、「どのコミュニティにも属さない、謎の存在でい続ける」というスキルを得ることになったようだ。

 

今、地域の中で自分のポジション確立できたのは、「謎のポジションでい続ける」という中学生以降に取得した生き延びるためのスキルによるのかもしれない。

 

寺子屋ガリで、子どもたちが起業する姿に感動したのは、親心に近いのかもしれない。

もどかしい。もどかしい。自分ができないことがどれだけもどかしいか。しかし、信じる気持ちもある。「彼らならできる。」そして、信じるしかない。彼らの底力を。

そしてその結果、自分で起業するよりも大きな感動を得ることができた。

なぜなら、彼らの成長をまざまざと感じることができたから。

 

つくづく、人の話を丁寧に聞いていくことは大事だなぁと思う。

もしドラで「マーケティング」という概念を知ったことも、寺子屋ガリを進めたことも、寺子屋塾内で個人面談を始めたことも相まって、最近よくそういう気持ちになる。

 

大事なことを、当たり前のように大事にする。

 

それが最近のテーマだった。

 

丁寧に話を聞くスキルとして「投影」心理士の友達からの話が面白かった。

「他人の話を聞く中で、その人の立場になって感じた時、自分に沸き起こる感情を無視せずに言葉として返してみる」というスキル。

フロイトが始めた精神分析の学派で大切にしていることらしい。

人間はどこか、感情をおざなりにはできない側面があるらしく、「まあいいか。結果良かったわけだし」などと知性化したとしても、「その時誰かに慰めてほしかったのにそうされなくて寂しかったこと」などは、ある種味わい切ってあげないと、次に進めないというか、引っ掛かり続けるのかな、と。

それを引き出して、改めて思い出して、その感情があることを認めて、味わい切ってあげて初めて、次に進める。そのお手伝いをするのが臨床心理士だ、と。

 

自分の専門外の人から話を聞くのはおもしろい。

 

寺子屋ガリで、自分は子どもたちのサポートをしているつもりが、今や僕自身が背中を押されている。
僕も次は「鍼灸事業」をスタートする身である。

その中で様々な不安があることに気付く。

「こんな料金で、自分に価値はあるのか?」

「誰が来てくれるねん?」など。

 

でも、結局一歩踏み出してみたら、状況がわかるし、変わるし、結局やるしかないんだよな。

そう、そうなんだよな。