塾長鍼灸師のあたまの中。

ここだけの話。

別れ

俺も、もうそろそろだ。
最期は、少し無惨なところを見せるかもしれない。


「意識がはっきりしている内に遺言を記そう」
そう決めたのは、ちょうど1ヶ月前の6月29日。季節外れだけど、今年初めて蝉の鳴き声を聴いた日だった。
夕方になると、このベッドからは、木漏れ日が覗く。季節や自然を感じると、なぜだか俺は安心した。


病院は孤独だ。無機質で、検査ばっかり。
誰も俺を人間としてなんか見てやしない。数値、数字、管理…俺にだって、仕事をバリバリやってた時があったんだぞ。おい、そこの看護師よ。お前よりも俺は仕事が出来たんだ…


いや、違うか。
老いゆく自分と折り合いをつけるのに、時間がかかっているだけだ。自分の人生。プロフェッショナルとして駆け抜けてきた自負とプライド。そして、老いぼれたこの身体。だてに鍼灸師として生きてきたわけじゃない。自分の身体が今どんな状態で、どこが弱ってるか、なんて手に取るようにわかってんだ。それに、心がまだ追い付かないだけ。


いや、今の気持ちはそれだけじゃないな。
静かに、でも厳然と横たわる「死」というものを目の前にして、ついぞそっちへ行ってしまうのか、と、淋しくて、意固地になっているだけなのかもしれない。


人間は、生まれる時も、死ぬ時も独りだ。
何も着ずに生まれ落ち、焼かれて何も持たずに天に召される。


そんなことはわかってる。
遺言を書こうと決めてからの1ヶ月、何回だってそんなことは考えたよ。


開けていた窓から、蒼い風がそよいできた。
「気持ちがいい。」少し汗ばんだ体を駆け抜けていく…
便箋が飛びそうになって、慌てて手で抑える。


ただ、俺を淋しくさせるのは、これまで俺が深く愛してきた者たち。
そして、その者たちからの愛だ。


この遺言を記そうと思い付いたのも、家族が俺の病室へ勢揃いした時だった。


「わー、久し振りね?!元気にしてた?」
「あらー、大きくなったじゃない?末っ子ちゃんだっけ。いくつになったの??」
「最近仕事が忙しくてさ…しかもそんな時に限って上司に怒られるし…やってられないよ。」
「お前、そんな文句言うなよ。怒られてる内が華だぞ。怒られなくなったら、もう辞めるしかなくなるからな。」
「もういいの。彼のことは忘れるって決めたから。」
「えー、でも、前会った時はあんなに好きって言ってたじゃない?この人が運命の人だとかさ。」
「お父さん、さくらんぼ買ってきたよ。あれ、嫌いだっけ?まぁいっか。私好きだから、食べてあげるね。」


何も答えてないのに、どっか行っちまった。
好き勝手しゃべりやがって…


「俺なんか居なくたって、こいつらは幸せになれる。」
ふと、そんな言葉が脳裏に過る。


そうか…それでいいんだよな、きっと。


俺がベッドで寝転んでいるのはよそに、みんなそれぞれに話をして盛り上がっていた。
俺は、それを聞きながら、とても穏やかな気分になった。


みんな、これから生きていくんだなって。
それぞれに今があって、
それぞれに、未来を描いてる。


淋しいと感じるのは、俺が彼らを深く愛してきた証拠。
穏やかな気分になったのは、俺が役目を終え、人生の全うを感じるからだ。


日が暮れてきた。
暗くなるけど、まだ灯りを点けるほどじゃない。この時間が来るのを待っていたような気がする。


さて…と。
3年前に娘からプレゼントされた紺色の万年筆を手に取る。


"ここに、遺言を記す。
 まず第一に。

 この世界は、生きるに値する。"


「結局、子どもの頃からずっと、字は綺麗にならなかったな。」
そんなことを思い出し、少し嬉しくなる。


"どんな困難があっても。
 その先には、希望がある。"


俺は、背中で希望を見せようと努力し続けてきた。
実際、彼らの目にはどう映ってたろうな。


"幸せに誰よりも真剣で、貪欲であれ。
 子どもや他人を幸せにするには、
 まず自分が満たされてないといけない。
 これは、お前たち自身だけの問題じゃないんだ。"


俺が生まれたのは、バブルとやらが、崩壊した後だ。
経済成長が終わり、その当時を知る大人がつけた言葉は「閉塞感の時代」。
そんな不細工な言葉つけるんじゃねぇよ。
お前にとっちゃそうかもしらんが、何故その価値観を子どもにまで押し付ける?
「絶対に新しい時代に合った生き方、価値観を見つけてやる!」
思考し、傾聴し、対話し、共感し、行動し、共有し、また思考する…模索し続けていたら、こんなところまで来てしまった。


"真剣に生きているほど、人生はあっという間だ。
 後悔の無いよう、自分が正しいと思う道を進め。"


一言一句、嘘偽りのない言葉を書けている。
この遺言は、俺の人生そのものだ。


"最後に。
 言わなくてもわかってるとは思うが、家族と過ごす時間を、何よりも大事にしろ。
 そうすれば、人生は素晴らしいものになる。"


コンコンっとドアが鳴る。
「瀬戸さん、検査の時間ですよ。」


俺は、ふぅっと溜め息をついた。