塾長鍼灸師のあたまの中。

ここだけの話。

仮説「大人の信じることを、子どもは信じるようになる。」

もし、親が「東大に入学することは、子どもにとって最高の選択肢だろう」と、

心の底から信じることができていれば、

きっと子どもはそれを当たり前のように感じ、

その道に進んでいくんだろう。

 

もし、親が子どものことを心の底から信じていれば、

子どもは自分自身を信じ、行動するだろう。

 

好奇心の強い親の元に育った子どもは、好奇心旺盛になる印象があるが、

それは前提として、親が「この世界は面白い。」と信じているからなんじゃないか。

 

「信じる」ということが、引き出すパワーはとてつもなく大きい。

もしその内容が間違った(時代や自分の生きる環境にそぐわない)ものだったとしたら、

負のベクトルに働くパワーも、とんでもなく大きく感じる。

 

例えば、「一つのものに集中してコツコツ鍛練するのはいいことだ。」という呪縛は僕にとってかなり大きかった。
 
でも、「変わってもいい」と気づき、とても楽になった。
(誰かから、信じさせられていたものから解放されたからかな?)
 
 
 
 
つまり、「信じる内容が変わる」というのは、人生にとって大きな転機と成りうるんだろうかな、と。
 
もちろん子どもにとって親とは、共有する時間がとんでもなく大きいから、影響力が強いのは疑いようがない。
ただ、寺子屋でも、少なくとも子どもに影響力を持つ一人の大人として、講師自身が腑に落ちて信じていることを伝えられたら、子どもが変われる可能性があるんじゃないか。
 
しかし、これを「指導できるレベル」にまで高めるには、一つ難点がある。
「自分が何を信じているかは、言語化しにくい」ということだ。
自分が信じるものは、普段の生活の前提となってしまっていることが多い。
そしてそれを疑わずして生きられている状況では、意識することはごく限られている。
まさに「カルチャーショック」などは、自分の信じたものが崩れていく体験であると共に、言語化のチャンスでもある。
 
経営者コンサルの桑原さんは「何を聞くか、よりも重要なのは、誰から聞くか、である。」と言う。「つまり、影響力を持つには、自らの在り方を高める他にない。」と。
 
何を教えるか、よりも、どう在るか。
自分の信じるものと、実際の行動・言動がずれてないか。
子どもの前に立つ時、何よりも大切にしていることだ。
 
こんなことをコネコネ考えていると、”宗教”についても、考えた。
旧約聖書の中で「苦しい時代に宗教は救いを求めて流行り、豊かな時代には廃る」という描写があったように記憶している。
つまりは、人間は「苦しみから救われたくて何かを信じる」と仮定すると、少し見えたような気がする。
色々な種類の宗教が世界にあるんだけど、それぞれの内容はさておき、
それらをもっと俯瞰で見たときに、「信じているものが言語化できていること」や、「一定のコミュニティでそれを共有できている」ということが、
今ある苦しみから解放され、安心して生きて行くためにすごく重要なんじゃないか。
 
安心は、クリエイティビティ(創造力)を生む。
まずは、自分が何を信じて生きているのか、もっともっと言語化してみたくなった。