塾長鍼灸師のあたまの中。

ここだけの話。

こみ上げる、この気持ちはなんだろう。

今日は元旦だ。
 
だからなのか、なんなのか。
今まで自分が何を糧に、何を軸に、何に価値を置いて生きてきたのか。
それにスポットライトがあたる日だった。
 
まさに「こみ上げる、この気持ちはなんだろう。」という状態だった。
 
僕は、いたって豊かな国に生まれ、その中でもいたって幸せな家庭に生まれ育った。
特にトラブルというトラブルもなかった気がする。
あったとすれば、小学校1年生の時にちょっとだけいじめられていたような気もするが、そんなのはトラブルのうちに入らない気がする。
 
幸せ。順風満帆。生きる環境に何の文句もない。軽やか。
何の荷物も背負っていない。そんな感じだ。
 
それは両親の性格のせいなのか、はたまたそれを生み出した、
僕の大好きなばあちゃんのせいなのか。
 
なぜか、他人の荷物まで背負いたがる性格に育ってしまった。
 
まったくおめでたい奴だと思いませんか?
そんなことをする余裕もない過酷な環境に生まれて生きている人もいるのに。
おめでたい、ほんとに。自分でも辟易する。
 
昔からそうだ。
 
自分の荷物は問題にならないほど軽く感じていたのか、ほとんど無意識だった。
他の荷物の重そうな奴を見つけては 「俺が持ってあげようか?」って声をかけて。
 
そういう時、言われた側は、始め「そんなこと言われたことない」と喜んでくれることがあった。
はなから拒否反応を示す人もいるだろうが、特に幼いうちは、拒否されることは少なかったような気がする。
 
それが第一段階。それが女の子なら、ここで付き合うことも少なくなかったような。
 
でも、第二段階。その人が抱える問題の核心に、僕が迫れば迫るほど、当事者は「自分事」として現状を直視しなければならなくなるし、アクションを求められるようになる。
かつ、今のような大人になるまでは、僕やその人自身にはどうにもできないことが多かった。
 
そうなると、第一段階では喜んでくれていた人も、徐々に僕に対して拒否反応を示してくる。
でも、僕は純白な「助けたい気持ち」と少しの興味から、状況を明らかにしようと迫る。
 
その先に、絶望しかなかったとしても。
 
大人になってから、やっと第三段階が見えてきた。
本当にその問題を解決する手段が思いつき、そしてそれが実行できることが増えてきたからだろうか。
僕は幼いころからずっとこの「問題の核心を解決する」第三段階を純粋な目で目指していたんだと思う。
 
話が逸れた。
 
なんで僕は、そんなに他人のことを助けたいと思ってきたんだろう?
 
だって、第二段階に差し掛かって、助けたいと思ってあれこれと相談に乗り、何かできないかと真剣に考え、問題の核心を突こうとする度に相手を傷つけた。
 
そんな自分が矛盾しているように感じて何度傷ついたことか。
何度打ちのめされたことか。
何故俺は誰のことも助けられないんだ。
なぜ俺は何もできないんだ。
なぜ助けようとして傷つけてしまうんだ。
 
でも、それでも、めげずにその「純粋な目」を持ち続けてここまで来た。
 
人を助けるとはどういうことなのか。
何の荷物も背負って来なかった自分でも、そのことを誰よりも真剣に考えてきたつもりだ。
 
だから、今の自分がある。
何か新しい考え、技術を身につける度に、
「あぁ、あの時の俺がこれを知っていたらあいつを助けられたかもしれない。」と思う。
 
後悔だらけの人生だなぁ。本当に後悔だらけ。
だけど、その後悔があるから、今の自分があるんだ。
より多くの人を助けることができるであろう、今の自分が。
 
なぜ人の荷物を背負いたがっていたのか。いるのか。
 
それは、幸せだからだったんだ、と今日気付いた。
 
成功とは、思い描いたものを手に入れることだが、
幸せとは、手に入れたものを分かち合うことだから。
 
分けてもらう幸せ。それが例え重すぎる荷物でも。
分けてあげる幸せ。それが例え何年もかけて考えた自分にしか思いついてないような考えでも。それが例えお金と時間を費やして苦労して身につけた技術でも。
 
それをひたすら求めてきた人生だったような気がしている。
 
苦しみも、悲しみも、喜びも、分かち合うことに価値を置いてきたんだなぁ、きっと。
やっぱり菩薩界を目指してるし、それが究極の幸せだと感じているんだ。